開始

 ぬかるみ派という名で雑誌を始めるにあたり、ジョルジュ・バタイユという比類ない開始の思想家について語ることからこの序文を始めよう。

 バタイユは第二次世界大戦中、戦争によって一変してしまった世界に触発され日記を書き始めた。それらは戦後、「無神学大全」という名でまとめられ出版された。だがバタイユは初めから出版するつもりで日記を書いていたわけではない。少なくともそれを決断したのは現在『内的体験』の題でまとめられているものを書き始めたころだ。『有罪者』のバタイユには迷いが見える。自分が向かう終わり=目的が分からず、また自分が何をしているかさえも分からず、混乱し、錯乱し、不可能性のなかをさまよっている。

 しかし、『内的体験』においてバタイユは自身の体験を書き始め、まとめ始めることを決断する。自身のなしていることがロゴスの力を借りなければならないことだと気づく。そして「序論草案」において次のように言う。

 おそらく私はニーチェよりも深く非‐知の夜のほうへ傾斜してきた人間であろうと思う。私が今、泥に足を取られたようにしてぐずぐずと時を過ごしているこの沼地に、ニーチェはいつまでも遅滞してはいなかった。だが、私はもうためらったりしない。私たちがこの深みにまで入っていかないかぎり、ニーチェすら理解しえないのだ。(出口裕弘訳『内的体験』p.76)

 ここには誰一人として進まなかった泥の奥底まで進もうというバタイユの決意が表れている、決断の瞬間がある。私たちはぬかるみに沈み込もうとするひとりの人間の開始を見て取ることができる。バタイユは始めている。他なるものに向かって、交流に向かって、ぬかるみに沈み始めている。彼がこのぬかるみへと進む理由や、このぬかるみの先を、彼自身も、まして私たちも知りはしない。

 バタイユを最もよく読解している哲学者のひとり、ジャン=リュック・ナンシーはこの開始、自由の開始が炸裂する瞬間を書こうとする。

 ナンシーは『自由の経験』において、自由とは自由‐存在であるという同語反復的な議論を展開し、「自由が自身を不意撃ちする」瞬間を自由の体験であると述べたそのあとで悪の問題に取り掛かる。

 ナンシーはハイデガーの次のような考えを参照する。すなわち、存在を善とする古典的な議論に疑問を投げかけ、存在の後に善と悪がありうるとしたという考え方である。そうして「先だつのは善でも悪でもない。自由のみが自ら先だち、自ら続くのであり、善か悪かを決断する決断において自らを不意打ちする」と述べる。すなわち、自由‐存在が先だっており、善や悪はそのあとに続くものに過ぎない。そして(名前こそ出していないが明らかに)バタイユの内的体験について書いた段落のあとで、次のように言う。

 激怒〔fureur〕は単に直接的に──だからこそそれは激怒しているのだ──自由であるところの離脱の無限の可能性を実行する。(澤田直訳『自由の経験』p.220)

 「激怒fureur」は感情のみをさす語ではない。無意味に吹き荒れ破壊を行う嵐や恍惚の意味も持っている。すなわちここでいう激怒とは激しさや激烈さのことであり、ハイデガーは激怒という悪辣なるものが入り込むことで、存在において悪がありうるとする。

 ナンシーはこの激怒の激しさこそ、「自由であるところの離脱の無限の可能性を実行する」と述べる。爆発し、恍惚し、炸裂する激情が自由に自由を開始する。離脱し、侵犯する自由の開始が実行される。バタイユの開始とはこの自由の開始に他ならない。

 ナンシーによればこの自由の開始は存在者すべてにある。それを誰よりも実践していたのはバタイユだった。バタイユは他なるものめがけて開始するのであるが、ナンシーの考えに沿うのならば、バタイユはむしろその開始において他なるものを呼び込んでいると言える。すなわち、あのぬかるみに足を踏み入れると決めたバタイユは、自由に不意撃ちされ、開始しているのだ。

 ニック・ランドもこのようなバタイユ像にある程度の理解を示すだろう。次のようなランドの行為がそれを裏付けている。すなわち、バタイユがニーチェを深く経験しようとしたように、ランドもバタイユと共にあろうとする。後期資本主義社会においてバタイユの他なるものを呼び込み、そうして近代を終わらせ、新しいものを始めること、これが少なくともある時点までのランドの思想である。

 ランドに言わせれば、近代は新しさを求め、その新しさを広告するにもかかわらず実際は循環性を密輸している。だから現代など始まってはいない。そんななかでバタイユが、あるいは聖人や人狼や吸血鬼や狂人が、近代以外の時間を始めた。『絶滅への渇望』はバタイユらに続こうとして書かれた書だと言える。すなわち、ランドもまた自由に不意撃ちされ、至高な瞬間を見出したひとりの人間なのである。

 バタイユが常に追い求め、ナンシーが定式化した至高な開始の瞬間を、私たちもいままさに体験している。ランドの開始は、彼の現在という結果を見ると、ほめたたえられるようなものではない。それでも彼は開始した。彼の開始のように、あるいはバタイユの開始のように私たちの活動も失敗するかもしれない。あるいは成功してしまうかもしれない。どちらにしろ結果は重要ではない。開始そのものが犯しえぬ至高な価値なのだ。

 いま、私たちは見通しの効かない開始の瞬間にいる。この見通しの効かなさは、自由が開始し、開始が自由に行われているためだ。自由は最終的に自己の形式を破壊することでしか自己を有らしめることができない。

 だからこそ、私たちはこの自由の開始に賭けるしかない。ぬかるみのような底なき底に舞い戻り、開始の自由に身を任せ、賭けている。このことは倫理的要請を発するようなものではない。「だから○○すべきである」などということはできない。そうしてしまえばこの開始の自由は近代のものとなってしまうだろう。

 であれば、バタイユに倣って私はあなたがたにこのように言うしかない。「君が誰であろうとかまわない。君の自由の開始に賭けたまえ」。私たちは、あなたがたとぬかるみのなかで何度も出会えることを期待している。

——櫻井天上火

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  • [発行日]第1版 2022年11月20日発行
  • [発行者+責任編集]幸村燕
  • [編集]幸村燕+小川紘輝+櫻井天上火
  • [アートディレクション+デザイン+カバーイラスト+ウェブデザイン]永良新
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序文——ぬかるむ知性

 我々「ぬかるみ派」は、私が主催を務めていた『模範的社会人になるための自己啓発読書会』(略称模社読会)という読書会兼その議事録をnoteに公開するグループを前身としている。もちろん、そこからメンバーが抜けたり増えたりしたが、基本的な理念は「模社読会」の頃からほとんど変わっていない。

「模社読会」と「ぬかるみ派」が共通で掲げる理念、それは「嘲笑わないこと」だ。何かを嗤い、そしてそれを自分とは無関係なものとして外化する振舞いに対して徹底的に抗うことが我々の理念である。我々は、自己啓発や加速主義やそれらに付随する新自由主義を真剣に取り上げるべき対象と見なし、そしてそれらを自らと決して切り離さず自らと地続きで考える。様々なもの同士の分断が重大な問題として取り上げられる現代において、このような思考は意義を持つはずだ。分断していることを問題にするのではなく、その分断自体を思考することこそが我々の目指す姿勢であり、我々の思考なのである。私は、このような知のあり方を「ぬかるむ知性」と名付ける。「ぬかるむ知性」は迂闊な批判をやめ、批判対象の中に入り込む。ぬかるみ派は自己啓発や加速主義に与するのでもなければ、批判するのでもない。これらを現在の問題として捉え直し、そして現在を理解する足掛かりとする。

 現在。失われもせず、求められもせず、見出されもしない現在。多くの人々は未来を求めて前のめりになっているが、それでも尚彼らがこの現在というぬかるみに足元を取られているのは間違いない。人間は現在から離れられない。人間は現在というぬかるみに嵌まり込んでいる。しかしそれにも関わらず、現在を捨て去ろうと努力し続けている。全てが速すぎるために人々が前のめりになっている現在において、思考にスラッジを打ち込むことで淀みを生み出し、現在を思考することは重大な意義を持つだろう。ぬかるみ派はただ現在をのみ志向する。もしどこか遠くへ飛び立とうと思うならば、まず第一に自分たちがどこにいるのかを問わねばならないはずだ。

 さぁ、現在というぬかるみを楽しもう。

 本書はどこから読んでも構わない。あなたの好みに合わせて、どこからでも好きに読んでもらいたい。この本があなたに気楽な遊歩と知的遊歩が生み出す快楽を提供してくれることを願う。

 P.S. лилияとеуыの狭間にて。

——幸村燕

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